昨日の続きです。
自己調査委員会の「圧力隔壁破断説」が間違いであることはこのように簡単に証明できます。
逆に「急減圧」が起きた事件をご紹介します。
123便の墜落事故が起こった翌年の1986年10月26日に起こったタイ航空手榴弾爆発事故についてご紹介します。
タイ・バンコク発フィリピン・マニラ経由大阪国際空港(伊丹空港)行きのタイ国際航空620便は、乗員14名、乗客233名、計247名を乗せて高知県土佐湾上空を飛行中でした。
日本人乗客の暴力団員が手榴弾を機内に持ち込み、機内、後方のトイレ内で弄ぶうちに安全ピンが抜けて、元に戻せず放置しまったために爆発。
当然ながら本人は大けがを負いますが結局助かります。
(こんな信じれない持ち込みができてしまったというのが恐怖ですね)
それによって、飛行機の圧力隔壁が破損したという事故です。
機内では急減圧が起こりあたりは霧に包まれました。
酸素マスクなしでは呼吸ができない状態になりました。
しかしパイロットは冷静沈着に行動しました。
パイロットはすぐさま緊急降下を行い低酸素状態を解消させたのです。
そして、幸いにも油圧系統の機能が一部残っていたため大阪伊丹空港への緊急着陸に成功して全員生還したというケースです。
1つ間違えば大惨事になる事件でした。
このように、圧力隔壁が破損したのであればタイ航空のような事態になるということが実際に証明されています。
さて1995年ニュースステーションが衝撃的な番組を放送します。
「幻の米軍救出作戦」と言うものでした。
日本の巨大マスメディアが、声を同じくして「墜落地点がわからない」と報道していたその当日のことです。
上野村の住民達と同じように、実は米軍がこの墜落事故現場を既に特定していたのです。
これは事故から10年後の1995年に元米兵アントヌッチ中尉が「The Sacramento bee」という地方紙に語ったものです。
彼は沖縄県嘉手納基地から横田基地に向かって飛行するアメリカ軍C130輸送機に乗っていました。
JAL 123便墜落の20分後に彼の乗っていたC130輸送機は横田基地からの探索命令を受けて一帯を捜索することになるのです。
墜落の約30分後の18時30分前に墜落現場を発見します。
その上空600メートルで旋回して正確な墜落地点を横田基地に報告しているとの事でした。
そして、まもなく、米軍のヘリが救助のために現場に急行します。
しかし、隊員が現場に降下する直前になぜか横田基地から撤収命令が下されたのです。
C130の兵士は横田基地に帰還後、上官からこの件については誰にも話さないようにとの箝口令を敷かれたそうです。
降下直前にどうして帰還命令が出たのでしょうか?
誰が何のために米軍の救出行動を阻止したのか?
やがて、それが明らかになってきます。
つづく